躰道をどう捉えるか

 先ず躰道を武道として考え稽古していくならば、試合至上主義は捨てなければならないだろう。何故か。それは試合中心の稽古になると、試合に勝つ為だけの稽古に成ってしまうからだ。もともと今まで稽古してきた術儀を試す為の試合が、単純に優劣を競うという本末転倒の状態になってしまうからだ。これでは試合に勝つ為に練習しているのであって、武道の持つ本来の目的から逸脱してしまっていると言えるだろう。
 では次にスポーツとして考えた場合どうかと言うと、これも色々と問題はある。例を挙げるなら、先ず判定の曖昧さだろう。これは審判によってあまりにも違いが出てくるからだ。このような事が起こると当然選手としては馬鹿馬鹿しくて試合などやっていられないだろうし、何より競技人口がどんどん減っていくのではないだろうか。だから今後スポーツとしてやっていくのなら、早急にこのルールと審判問題とを解決していかなければならないだろう。尚、スポーツなら今の法形のあり方に異議は唱えないし、疑問もあまり抱かないだろう。それは型としてではなく、踊りとして割り切れる事が出来るからだ。しかしこのような考えでやっていくのなら少なくとも武道と名乗ってはいけないと私は思う。法形の所にも書いたが、もうそれは武道と言える代物では無いだからだ。
 私個人の考えとしては躰道を武術、武道として今後も稽古していきたいと考えている。もともとやり始めた動機が武道をしたかったからだ。しかし今の状況では上述した様に疑問が山積しており、とてもではないが現時点での私の考えでは躰道は武道とは言えない。法形の所でも述べているが、分解が無く躰道の技が実際に使えるかどうか自信が持てないからだ。
 武道の原点は武術であり、武術とはその技が使えるかどうかという極めて単純なもので、躰道が武道であるならばその技が使えなければならない。もし実際に使えると言う人がいるのなら目の前に出てきて証明して欲しい。つまり使える人間がいて欲しいのだ。武道としてやっていくのならそのような人間は必用不可欠であり、もしいないのであれば今後の発展はかなり難しいものになるだろう。
 話しが横道にそれて申し訳無いのだが、最近躰道の機関紙で他武道の事を馬鹿にしたようにとれる記事が掲載されていた。ハッキリ言ってこの様な事は書かないで貰いたい。この様な記事を見る度に自分のやっているものがとても情けなく、憤りを感じるし、とても恥かしい気持ちになる。
 躰道は他武道より優れていると書いてあったが、果たしてそれを証明した人間は実際にいるのだろうか。仮にいたとしてもそれは昔の事であり、今この時代に証明出来ていなければ何の意味も無いのではないだろうか。私としてはそのような証明も無しにあのような記事は書くべきではないと考える。
 

最後に、現時点で私が考えている武道とスポーツの違いは以下の通りである。
格闘技 相手と同等の条件(素手が主流)で勝敗を掛けて戦う明確なルールがあり、互いに競い合う事が目的。体がでかく、力の強いものが勝つ。スポーツ。
武道 相手と必ずしも同等な条件ではない状況で、相手を倒す技術を学ぶ。試合をしないところもある、武を通じて道を知る事が目的。道を求める、道徳や倫理も必要。必ずしも勝つ必要はない。
武術 いかなる状況下でも生き残る術を学ぶ、相手を完全に無力化する技術が多い学ぶべき点が多いが、現代社会ではその真価を発揮できないこともある。殺人術、勝てなければ逃げる、サバイバル術、生き残れれば良い。体が大きいと武器の的になりやすい。小さくとも老齢でも体の使い方、武器の使用法、戦術が優れていればOK。出来るか出来ないか。極めて単純、デジタル的。
武道・武術 攻撃と防御は表裏一体。攻防の瞬間は常に相手にニの手を出させない状態になっている事が必用。武道はスポーツに通じるが、スポーツは武道に通じない。
「受け」という言葉はスポーツ的解釈で「防御」と言う事場は武道的解釈相手が攻撃してきてそれを受けると言う事は武道の世界では危険なこと。受け→攻撃は一挙動でなければならない。

参考文献
「武道の原点」宇城憲二著、合気ニュース刊

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